焼入れた鋼、芯まで本当に硬い?が地味に怖い
「SCM440をΦ80mmの軸で焼入れたんですが、芯部のHRCが想定より低くて……」——熱処理屋から電話が入ってヒヤッとした経験がないだろうか。表面はピカピカに焼きが入っているのに、断面を切ると中央付近だけトルースタイトの黒い帯が残っている、いわゆる「芯部未焼入れ」。設計図面では「焼入れHRC58以上」とだけ書いてあって、それが表面なのか、芯なのか、25mm深さなのかを曖昧にしたまま発注すると、こういう事故が起きる。
このツールはJIS G 0561に基づくジョミニー一端焼入れ試験を「化学成分から逆算して再現する」ための無料Web計算機だ。C・Si・Mn・Cr・Mo・Ni・V・Bの8元素を入力すれば、Grossmann式で理想臨界径DI(mm)を算出し、Jominy距離1.5〜50mmまで13点のHRC分布を一気に書き出す。SCM440・SUJ2・S45C・SK85などプリセット10種を載せたので、ミルシートを開く前の段階でも比較選定に使える。設計者・熱処理技術者・材料工学を学ぶ学生のために、教科書のJominy曲線が手元のスマホで再現できる環境を目指した。
なぜ作ったのか
きっかけは、ある減速機メーカーの設計レビューで「SCM440で大丈夫?ひょっとしてSCM435でも済むのでは?」という議論が紛糾した日だった。仕様書には「Φ60mmの軸、焼入れ後HRC55以上」とだけ書いてある。SCM440にすればコスト2割増、SCM435ならOKなら年間数百万円浮く。でも誰も即答できなかった。理由は単純で、焼入れ性ランクA・Bの境目が直径50〜80mmあたりにあって、Φ60mmはちょうど判別しづらいゾーンだったからだ。
その場では「念のためSCM440で行く」と決まった。しかし帰り道、釈然としなかった。Jominy曲線の手元データさえあれば10秒で結論が出たはずだ。だが現場で開けるJominy計算ツールは存在しない。日本鉄鋼協会の論文をPDFで開いて表をスクロールするか、ASMハンドブックの英文を引くしかない。海外サイトを検索しても、英語のhardenability calculatorは単位が華氏・インチ系で、JIS鋼種のプリセットも入っていない。
特に困ったのが、化学成分から距離別HRCを返してくれるツールが日本語にも英語にも無料で公開されていないという事実だった。学術ソフト(JMatPro等)は数十万円のライセンス料がかかる。設計現場では「SCM440のミルシートで C=0.41, Cr=1.10, Mo=0.20 ならDIはいくつか?」を3秒で知りたいだけなのに、その3秒のためのツールが世界中どこにもなかった。
そこで作ったのがこのツールだ。Grossmann式と粒度補正、Just式によるmaxHRC、指数減衰モデルによるJominy距離別HRCを組み合わせ、SCM440・SUJ2・SNCM439などJIS鋼種10種をプリセットで搭載。**「ミルシートのC・Cr・Mo・Niを打ち込めばDI値とランクが出る」**という、たったそれだけの機能を徹底的に磨いた。鋼種比較で迷ったあの日の自分に、これを渡したい。
焼入れ性とDI値とは何か
焼入れ性 とは(第一原理からの説明)
「焼入れ性(hardenability)」は、鋼を焼入れたときに断面方向のどこまで硬く焼きが入るかを表す材料固有の性質だ。「硬さ」(hardness)とは別物で、ここを混同すると鋼種選定で必ず失敗する。
具体例で説明しよう。S45C(C=0.45%)とSCM440(C=0.40%)を同じ油焼入れにかけたとする。表面のHRCはどちらもほぼ同じで、S45Cの方が炭素量が多いぶん表面は若干硬い。ところが直径50mmの丸棒で芯部のHRCを測ると、S45Cはわずかに30前後、SCM440は55近くになる。これが焼入れ性の差だ。表面の硬さは炭素量で決まるが、芯までの硬化深さは合金元素(Cr・Mo・Ni)で大きく変わる。
たとえるなら、鉄板焼きとオーブン焼きの違いに似ている。鉄板焼きは表面だけ高温で一瞬焼ける(=高炭素鋼の表面焼入れ)が、中まで火が通らない。オーブン焼きは時間をかけて中まで均一に火が入る(=合金鋼の深部焼入れ)。鋼の場合、合金元素は「マルテンサイト化に必要な冷却速度を遅くする」効果を持っているので、ゆっくり冷えても硬化が間に合う。これが焼入れ性が良いという状態だ。
DI値(理想臨界径)とは
焼入れ性を1つの数値に集約したのがDI値(Ideal Diameter, mm)だ。冷却速度が無限大の理想液体に丸棒を漬けたとき、芯部に50%マルテンサイトが生成する最大直径と定義される。Grossmann(1942年)が導入した古典的指標で、以下の意味を持つ。
// DIの意味
// DI = 100mm → Φ100mmの軸でも芯まで硬化が届く
// DI = 50mm → Φ50mmなら芯部は硬いが、Φ100mmだと中央はトルースタイト
// DI = 20mm → 薄肉品しか焼きが入らない
つまりDIは「何mm径まで芯部を焼き入れられるか」を直接表す。設計図面の軸径や歯車のモジュールが決まれば、必要なDIが逆算でき、それを満たす鋼種を選ぶ——という流れで鋼種選定が進む。
Jominy一端焼入れ試験とJIS G 0561
実測でDIを求める標準試験がジョミニー(Jominy)一端焼入れ試験だ。直径25mm・長さ100mmの丸棒を925℃に加熱した後、片端だけを規定の流量の水で噴射冷却し、長さ方向に距離別の硬さ分布を測定する。距離が長いほど冷却速度が遅く、距離別HRCが「冷却速度に対する硬化能のグラフ」になる。これがJominy曲線で、鋼種ごとに固有のパターンを示す。
日本ではこの試験法がJIS G 0561 鋼の焼入れ性試験方法(一端焼入れ方法)として規格化されている。詳細はJominy end-quench test(Wikipedia)も参照。
本ツールはJominy曲線を化学成分から逆算する。実機試験を行わなくても、Grossmann式と経験的な減衰モデルでDIを推定し、Jominy距離1.5〜50mmまで13点のHRCを返す。教科書のグラフがそのまま手元に出る感覚だ。
焼入れ性を誤るとどうなるか
大型クランクシャフトの中心部硬度不足→疲労破壊
実話ベースで紹介する。船舶用ディーゼルエンジンのクランクシャフト(直径200mm級)でS55Cを採用したケースで、ピン部の疲労破壊が運転500時間で発生した事故がある。原因究明の結果、芯部のHRCが30以下しかなく、転がり接触応力に対する強度不足が判明した。S55CのDIは合金元素ゼロ・C=0.55のみだとおよそ40mmしかなく、直径200mmの軸では中央部までマルテンサイト化が届かない。SCM445(C=0.45, Cr=1.0, Mo=0.20)に切り替えればDI≈170mmで芯まで焼きが入っていたはずだ。
このケースで設計者が事前に焼入れ性を計算していれば、鋼種選定段階で防げた事故だった。S55Cで安く済ませたい気持ちは分かるが、軸径が大きい部品ではコストより信頼性で合金鋼を選ぶのが鉄則だ。
鋼種選定でコストが2倍違う実態
逆のケースもある。Φ40mm程度の小径軸で、設計者が「念のため」とSCM440を指定する事例だ。実はΦ40mm以下ならS45CのDI≈29mmでも実用域に近い硬度が得られ、表面処理(高周波焼入れ)併用で十分な性能が出る。SCM440はキロ単価がS45Cの1.8〜2倍。年間数千本生産する部品で「念のため」を続けると、年間で数百万円〜数千万円のコスト差になる。
JIS G 4051(機械構造用炭素鋼鋼材)とJIS G 4053(機械構造用合金鋼鋼材)で規定された鋼種を、用途・断面寸法・要求硬度から最適に選ぶには、焼入れ性ランクA〜Dの理解が必須だ。本ツールは断面寸法に応じた選定ガイダンスも併記しているので、過剰仕様の防止にも使える。
規格・実務指針の引用
日本熱処理技術協会が発行する「金属材料活用シリーズ」や、ASM Heat Treaters Guideでも、焼入れ性は鋼種選定の最優先指標として扱われている。建築鉄骨ではJASS 6で溶接・熱処理に関する詳細な施工指針が示されており、機械分野ではJIS B 0613(焼入れ硬化層の表示方法)が深さ表記の標準として使われる。
「DI値を見ない設計は、コンパスを持たない航海と同じ」とまでは言わないが、断面寸法が大きい部品ほど焼入れ性のチェックは事故防止と原価管理の両方で効く。
活躍する場面
- 鋼種選定(設計フェーズ): 軸径・歯車モジュール・ねじ山深さに応じて、必要なDIを逆算→鋼種を絞り込む。SCM440で過剰なのか、SCM435で十分なのか、S45Cの高周波焼入れで足りるのかを5秒で判断できる。
- ボルト・締結部品の調達: 強度区分10.9・12.9のボルトはCr-Mo鋼の調質処理が前提。サプライヤから提示された鋼種のDIを確認し、ねじ部芯径での硬化が間に合うかを検証する。
- 熱処理工程設計(焼戻し条件決定): ランクA鋼(DI≥80mm)は500-600℃焼戻し、ランクC鋼(DI 15-40mm)は200-350℃焼戻しと、鋼種ランクで焼戻し温度の目安が変わる。条件出しの初期検討に。
- 応力腐食割れ評価: C+Cr+Mo合計値(ceqLike)から応力腐食割れ感受性を推定。海洋環境・水素環境の使用部品で予備評価に。
- HAZ硬化予測: 溶接熱影響部のmaxHRC=Just式の上限値を確認。詳細評価は/weld-haz-hardnessに進める。
基本の使い方
- プリセット鋼種を選ぶ: SCM440・SUJ2・S45Cなど10種のプリセットから選択。化学成分が自動入力される。ミルシートがあれば次のステップで値を上書きする。
- 粒度・冷却条件を選ぶ: ASTM粒度番号(標準は7)、オーステナイト化温度(870℃が一般的)、冷却媒体(油・水・塩浴)を選択。粒度が粗いほどDIは大きくなる。
- DI値とランクを読み取る: 結果カードに理想臨界径DI(mm)と焼入れ性ランクA〜Dが表示される。Jominy距離別HRC分布で芯部硬度を確認。コピーボタンで設計レビューや鋼種比較表に貼り付け。
具体的な使用例
実装と同じ計算式で導出した6ケースを紹介する。すべてDI = DIc(C) × ΠfX × grainFactor、maxHRC = min(65, 30+70C)、HRC(d) = max(20, maxHRC × exp(-d/(DI×0.4)))の組み合わせで算出している。
ケース1: SCM440 標準条件(粒度7・870℃油焼入れ)
入力: C=0.40, Si=0.25, Mn=0.75, Cr=1.05, Mo=0.22, 粒度7, 油
- DI = 6.6 × 1.175 × 3.498 × 3.268 × 1.66 × 1.0 = 147.1 mm
- maxHRC = min(65, 30 + 70×0.40) = 58.0 HRC
- ランク A 極良(DI≥80)
- 50%マルテンサイト深さ ≈ 73.5 mm
- HV換算 ≈ 710 / 応力腐食感受性 high(C+Cr+Mo=1.67)
- 推奨焼戻し: 500-600℃
解釈: 機械構造用合金鋼の代表格。DI=147mmで直径100mm程度の中大型軸まで芯まで焼きが入る。クランクシャフト・大型歯車・自動車のドライブシャフトに広く使われる理由がDIに現れている。応力腐食割れ感受性highに該当するため、海水・水素環境では焼戻し温度を高めにとってマルテンサイトを軟化させる必要がある。
ケース2: S45C 中炭素鋼(粒度7・水焼入れ)
入力: C=0.45, Si=0.25, Mn=0.75, 合金元素なし, 粒度7, 水
- DI = 7.0 × 1.175 × 3.498 × 1.0 × 1.0 × 1.0 × 1.0 = 28.8 mm
- maxHRC = min(65, 30 + 70×0.45) = 61.5 HRC
- ランク C 中(15≦DI<40)
- 50%マルテンサイト深さ ≈ 14.4 mm
- HV換算 ≈ 749 / 応力腐食感受性 low
- 推奨焼戻し: 200-350℃ + 水焼入れ+高炭素警告
解釈: 表面は HRC61.5 と十分硬いが、DIが28.8mmしかないため直径30mmを超える軸では芯までマルテンサイト化しない。水焼入れを選択するとさらに焼割れリスクがあり、警告が表示される。Φ20mm以下の小径軸や、高周波焼入れで表面のみ硬化させる用途に向く。同じCでも合金元素ゼロでは大型軸には使えないことが、SCM440との対比で明確になる。
ケース3: SNCM439 高焼入れ性鋼(粒度7・油焼入れ)
入力: C=0.39, Si=0.25, Mn=0.75, Cr=0.85, Mo=0.22, Ni=1.85, 粒度7, 油
- DI = 6.5 × 1.175 × 3.498 × 2.836 × 1.66 × 1.666 × 1.0 = 209.5 mm
- maxHRC ≈ 57.3 HRC
- ランク A 極良
- 50%マルテンサイト深さ ≈ 104.8 mm
- HV換算 ≈ 702 / 応力腐食感受性 mid(C+Cr+Mo=1.46)
- 推奨焼戻し: 500-600℃
解釈: Niを1.85%加えた最高級の構造用合金鋼。DIが209mmと驚異的で、直径150mm級の大型軸でも完全に焼きが入る。航空機エンジン部品・大型減速機の主軸・特殊船舶用部品など、信頼性最優先の用途に使われる。SCM440比でDIが約1.4倍、SUJ2比でも約1.8倍と、合金鋼の中でも別格の焼入れ性を持つ。当然キロ単価も高く、過剰仕様にならないよう設計時の判断が問われる。
ケース4: S15C 低炭素鋼(焼入れ性極低・ランクD)
入力: C=0.15, Si=0.20, Mn=0.45, 合金元素なし, 粒度7, 油
- DI = 3.85 × 1.14 × 2.499 × 1.0 × 1.0 × 1.0 × 1.0 = 11.3 mm
- maxHRC = min(65, 30 + 70×0.15) = 40.5 HRC
- ランク D 不良(DI<15)
- HV換算 ≈ 518 / 応力腐食感受性 low
解釈: 焼入れ用途には向かない典型例。DI=11mmで合金元素もゼロなので、警告「焼入れ性極低・合金元素ゼロの低炭素鋼。表面硬化(浸炭・窒化)または鋼種変更を検討」が表示される。S15Cの本来の使い方は浸炭焼入れで、表面層に炭素を浸み込ませてからその層だけ焼入れる方式。芯部は柔らかく粘り強いまま、表面だけHRC60の硬化層を作る、というような使い方になる。直接焼入れの素材としてではなく、浸炭処理を前提とした素地材として位置づけるのが正しい。
ケース5: SUJ2 高炭素クロム軸受鋼(粒度7・油焼入れ)
入力: C=1.00, Si=0.25, Mn=0.40, Cr=1.45, 合金元素なし, 粒度7, 油
- DI = 10.2 × 1.175 × 2.332 × 4.132 × 1.0 × 1.0 × 1.0 = 115.5 mm
- maxHRC = min(65, 30 + 70×1.00) = 100 → 上限65.0 HRCにクリップ
- ランク A 極良
- 50%マルテンサイト深さ ≈ 57.7 mm
- HV換算 ≈ 787 / 応力腐食感受性 high(C+Cr+Mo=2.45)
- 推奨焼戻し: 500-600℃
解釈: 転がり軸受用の超高炭素クロム鋼。表面HRC65は鋼として上限値で、転動体・内外輪のレース面に必要な耐摩耗性を生む。DI=115mmで大型軸受(直径100mm級)でも芯まで焼きが入る。応力腐食感受性は最も高く、海水中での使用は不可。焼戻しは通常160-200℃の低温焼戻しで使われ(軸受用途は高硬度維持優先)、本ツールが推奨する500-600℃は構造材としての参考値である点に注意。
ケース6: SK85 炭素工具鋼(粒度7・油焼入れ・ランクC)
入力: C=0.85, Si=0.25, Mn=0.40, 合金元素なし, 粒度7, 油
- DI = 9.4 × 1.175 × 2.332 × 1.0 × 1.0 × 1.0 × 1.0 = 25.8 mm
- maxHRC = min(65, 30 + 70×0.85) = 89.5 → 上限65.0 HRCにクリップ
- ランク C 中
- 50%マルテンサイト深さ ≈ 12.9 mm
- HV換算 ≈ 787 / 応力腐食感受性 mid
- 推奨焼戻し: 200-350℃
解釈: 鋸刃・木工刃・小型ばねなどに使われる炭素工具鋼。表面はHRC65まで硬化するが、合金元素ゼロのためDI=25.8mmと小さく、薄肉・小径用途専用。SUJ2と比較するとCの値はSUJ2より低いが、Crが入っていないぶんDIは1/4以下。**「同じ高炭素でも合金元素の有無でDIが4倍違う」**ことを示す好対照のケースだ。低温焼戻し(200-350℃)で硬度を維持して切れ味を出すのが本来の使い方。
6ケースの比較表
| 鋼種 | C(%) | Cr(%) | Mo(%) | Ni(%) | DI(mm) | maxHRC | ランク | 推奨用途 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| SCM440 | 0.40 | 1.05 | 0.22 | 0 | 147.1 | 58.0 | A | クランク・歯車 |
| S45C | 0.45 | 0 | 0 | 0 | 28.8 | 61.5 | C | 小径軸・薄肉品 |
| SNCM439 | 0.39 | 0.85 | 0.22 | 1.85 | 209.5 | 57.3 | A | 大型主軸・航空 |
| S15C | 0.15 | 0 | 0 | 0 | 11.3 | 40.5 | D | 浸炭素地材 |
| SUJ2 | 1.00 | 1.45 | 0 | 0 | 115.5 | 65.0 | A | 軸受 |
| SK85 | 0.85 | 0 | 0 | 0 | 25.8 | 65.0 | C | 工具・鋸刃 |
「炭素量だけでなく合金元素の有無でDIが10倍以上変わる」という焼入れ性の基本が、この表で一目瞭然になる。
仕組み・アルゴリズム
候補手法の比較
焼入れ性の予測式は世界中で多数提案されており、代表的なものは以下の3系統だ。
| 手法 | 提案 | 特徴 | 採用判断 |
|---|---|---|---|
| Grossmann式 | M.A. Grossmann, 1942 | 倍数因子の積でDIを算出 | 採用: シンプルで実務定着 |
| Just式 | E. Just, 1968 | maxHRC・距離別硬さの回帰式 | maxHRC算出に部分採用 |
| 厳密拡散モデル | DICTRA等の市販ソフト | パーライト変態速度を直接解く | 計算重く、ライセンス必須で不採用 |
本ツールはGrossmann式 + Just式によるmaxHRC + 経験的指数減衰モデルの組み合わせを採用した。理由は3つある。
第1に、Grossmann式は入力が化学成分のみで完結し、無料Web計算機として最も実装しやすい。各合金元素の倍数因子(fSi=1+0.7Si, fMn=1+3.33Mn, fCr=1+2.16Cr, fMo=1+3Mo, fNi=1+0.36Ni, fV=1+1.73V, fB=2.0飽和)はAISI/SAEの実測データから回帰された係数で、過去80年の実機検証に裏打ちされている。
第2に、距離別HRCは厳密にはパーライト・ベイナイト・マルテンサイトの混合比率で決まるが、設計現場で必要なのは鋼種比較に使える相対値であり、絶対値の精度は ±5HRC程度で十分だ。指数減衰モデル HRC(d) = max(20, maxHRC × exp(-d/(DI×0.4))) はASTM標準曲線をよく近似し、計算が軽い。
第3に、厳密モデル(DICTRA、JMatPro等)は数十万円〜数百万円のライセンス料がかかり、無料ツールとしての提供は不可能。設計の初期検討で「SCM440 vs SCM435」を3秒で比較したい用途には、Grossmann式が最適解だ。
実装詳細
本ツールの計算フローは以下のとおり。
// 1. 化学成分パース(不正なら null 返却)
const c = parseFloat(cStr);
if (!isFinite(c) || c < 0.05 || c > 1.20) return null;
// 2. 炭素量 → DIc 線形補間(粒度7基準, mm)
// C0.10→3.3 / C0.40→6.6 / C1.00→10.2 の表を線形補間
const dic = linearInterpolate(dicByCarbon, c);
// 3. 倍数因子(Grossmann係数)
const fSi = 1 + 0.7 * si;
const fMn = 1 + 3.33 * mn;
const fCr = 1 + 2.16 * cr;
const fMo = 1 + 3.0 * mo;
const fNi = 1 + 0.36 * ni;
const fV = 1 + 1.73 * v;
const fB = b > 0.0005 ? 2.0 : 1.0; // 飽和扱い
// 4. 粒度補正(粒度7基準)
const grainFactor = { 5: 1.4, 6: 1.2, 7: 1.0, 8: 0.85 }[grainSize];
// 5. 理想臨界径 DI
const DI = dic * fSi * fMn * fCr * fMo * fNi * fV * fB * grainFactor;
// 6. 表面最大硬さ(Just式の簡略形)
const maxHardness = Math.min(65, 30 + 70 * c);
// 7. Jominy距離別HRC(指数減衰モデル)
const hardnessProfile = jominyDistances.map(d => ({
distanceMm: d,
hrc: Math.max(20, maxHardness * Math.exp(-d / (DI * 0.4)))
}));
// 8. 焼入れ性ランク
const rank = DI >= 80 ? 'A' : DI >= 40 ? 'B' : DI >= 15 ? 'C' : 'D';
// 9. HRC→HV 換算(参考値)
const hazHV = maxHardness * 11 + 72;
// 10. 応力腐食感受性(C+Cr+Mo合計)
const ceqLike = c + cr + mo;
const corrosion = ceqLike >= 1.5 ? 'high' : ceqLike >= 0.7 ? 'mid' : 'low';
ランク判定(A/B/C/D)はDI値の単純しきい値で行う。50%マルテンサイト深さはDI × 0.5(理想臨界径の定義より)で算出。HV換算は HV = HRC × 11 + 72 のJIS Z 2245関連簡略式を採用した。
計算例: SCM440 を手計算でトレース
SCM440(C=0.40, Si=0.25, Mn=0.75, Cr=1.05, Mo=0.22, 粒度7, 油焼入れ)を手計算で追ってみよう。
// Step 1: DIc(C=0.40) = 6.6 mm(表からそのまま)
// Step 2: 倍数因子
fSi = 1 + 0.7 * 0.25 = 1.175
fMn = 1 + 3.33 * 0.75 = 3.4975
fCr = 1 + 2.16 * 1.05 = 3.268
fMo = 1 + 3.0 * 0.22 = 1.66
fNi = 1 + 0.36 * 0 = 1.0
fV = 1 + 1.73 * 0 = 1.0
fB = 1.0(B=0なので)
// Step 3: 粒度7補正
grainFactor = 1.0
// Step 4: DI
DI = 6.6 * 1.175 * 3.4975 * 3.268 * 1.66 * 1.0 * 1.0 * 1.0 * 1.0
= 6.6 * 1.175 = 7.755
* 3.4975 = 27.13
* 3.268 = 88.66
* 1.66 = 147.1 mm
// Step 5: maxHRC
maxHRC = min(65, 30 + 70 * 0.40) = min(65, 58) = 58.0 HRC
// Step 6: ランク判定
DI = 147.1 >= 80 → ランク A 極良
// Step 7: J1.5(表面)のHRC
HRC(1.5) = max(20, 58.0 * exp(-1.5 / (147.1 * 0.4)))
= max(20, 58.0 * exp(-0.0255))
= max(20, 58.0 * 0.9748)
= 56.5 HRC
// Step 8: J25(25mm深さ)のHRC
HRC(25) = max(20, 58.0 * exp(-25 / (147.1 * 0.4)))
= max(20, 58.0 * exp(-0.4248))
= max(20, 58.0 * 0.6540)
= 37.9 HRC
ツール出力(DI=147.1mm, maxHRC=58.0HRC, ランクA)と手計算が完全一致する。鋼種比較で「SCM440は直径100mm級の軸まで芯まで焼きが入る」という結論が、化学成分から数式1本で導ける——これが本ツールの設計思想だ。
他のJominy計算ツール・関連ツールとの違い
焼入れ性をWebで気軽に計算できる場面は意外と少ない。特殊鋼メーカーや工具屋のサイトには各鋼種のJominy曲線PDFが置いてあるが、自分で「成分を変えたらどう動くか」をシミュレートできるものは事実上見当たらない。ASTMやSAEのhardenability calculatorは英語で式とパラメータを直入力する設計者向けで、プリセット鋼種からの比較は想定していない。
このツールはまず日本のJIS鋼種10種をワンタップで切り替えられる。SCM440とSNCM439のDI値を交互に並べて比較するような操作が秒で終わる。さらに各成分は手動で書き換え可能で、ミルシートの実測値を入れた瞬間にカタログ値とのズレが見える。プリセットを編集した瞬間に「カスタム」へ切り替わる挙動は、自分が今カタログ値を見ているのか実測値を見ているのかを混同しないための設計だ。
サイト内では /carbon-equivalent-calc で炭素当量Ceqを別途求められ、/weld-haz-hardness で溶接HAZ硬さを直接予測できる。「焼入れ性ランクA・Ceq高め・HAZ硬度予測450HV超」と3点セットで把握すると、鋼種選定と溶接施工計画が一気通貫で進む。1ツールで全部やろうとするとUIが破綻するため、役割を分けて連結する設計を選んだ。
豆知識・読み物
Grossmann博士と理想臨界径という発想
DI値の生みの親、M.A. Grossmann博士は1942年にトランス・アメリカ協会会報に「Hardenability Calculated from Chemical Composition」を発表した。当時の鋼種選定は試験炉で実物を焼いてみるしかなく、新合金の評価に何週間もかかっていた。Grossmannは「無限大の冷却厳しさ(H=∞)で焼入れたとき、芯部が50%マルテンサイトになる丸棒の直径」を理想臨界径DIと定義し、化学成分から逆算する道を開いた。倍数因子という掛け算で済ませる発想は、当時のスライドルールでも計算できる現実解だった。本ツールが今も同じ式を使うのは、半世紀以上の検証で経験式として安定しているからだ。WikipediaのHardenabilityに基本式が整理されている。
Jominy一端焼入れ試験の生まれ
Walter E. Jominyが1937年にAmerican Society for Metalsで発表した一端焼入れ試験は、もっと泥臭い装置から始まった。直径25mm・長さ100mmの丸棒を加熱炉から取り出し、片端だけに水を吹き付けて冷やす。冷却速度が急→緩へ連続的に変わる勾配ができ、軸方向の硬度をHRC計でなぞるだけで「冷却速度ごとの硬さプロファイル」が一本のグラフで取れる。同時期にイギリスのShepherdも類似試験を提案していたが、装置の単純さと再現性でJominy法が世界標準となった。日本ではJIS G 0561、米国ではASTM A255が現役の規格だ。
ボロンが0.001%で効く理由
ボロンは数百ppmレベルの微量で焼入れ性を倍化させる。たった0.0008mass%入れただけでDIが2倍になる現象は、原子レベルの偏析メカニズムで説明されている。オーステナイト粒界に偏析したボロン原子は、フェライト核生成の起点を埋める。冷却中に粒界からフェライトが析出する経路が塞がれるため、結果としてマルテンサイト変態が優位になる。ただし飽和点があり、0.003mass%を超えると過剰なボロンが粒界を脆くするM23(C,B)6型ボライドを作り始め、靱性が一気に落ちる。本ツールがb > 0.0005で固定倍数2.0、b > 0.003で警告を出す設計は、この実務知見を素直に反映したものだ。
Tips
- DI値はH値で変わらない — DIは「無限大冷却」を仮定した理想値なので、油・水・塩浴を切り替えても数字は動かない。実際の焼入れ深さを比較したいときは、H値とDIから逆算する別の手法を使う。本ツールではH値を冷却媒体警告の判定にだけ使っている
- ASTM粒度7が最も普通 — 粒度番号は5(粗大)→8(微細)の順に細かくなる。市販構造用鋼の多くが粒度7前後で、迷ったら7のままでよい。ただし高温長時間焼入れでは粒度が粗大化するため、実体顕微鏡で測定値があるならそちらを優先
- ボロン鋼を使うときはTi/N対策必須 — 鋼中の窒素はBNを作ってボロンを無効化する。ボロン鋼にはTiやAlが必ず添加され、Nを先に固定する設計になっている。成分表を見るときはB単体ではなくTi/B比を確認すること
- 水焼入れ+C>0.55%は焼割れ要注意 — 高炭素鋼を水で急冷すると、表層のマルテンサイト変態膨張に内部が追従できず割れる。本ツールはC>0.55+水焼入れで赤色警告を出す
- DI値が同じでも炭素量で硬さは違う — DIは「焼入れ深さ」の指標で、最大硬さは炭素量で決まる。SUJ2(C=1.0%)とSCM435(C=0.34%)はDIが近いが最大HRCは全く違う。両指標を必ずセットで見ること
FAQ
DI値とDH値(実用臨界径)の違いは?
DI値は無限大冷却(H=∞)を仮定した理想臨界径だ。DH値は実際の冷却媒体(油や水)で焼入れたときの実用臨界径で、DIをH値(媒体の冷却厳しさ)で補正して求める。本ツールはDIに集中している。理由は2つあって、DIは化学成分だけで決まる「鋼種固有値」として鋼材選定の比較に使いやすいこと、DHは鋼塊形状や攪拌条件の影響が大きく一律式では精度が出にくいことだ。実機焼入れ深さが必要なときはDIから現場条件で補正するか、メーカーのジョミニーバンドを参照してほしい。
本ツールの予測値は実機Jominy試験とどれくらい一致する?
設計比較用途では十分実用的な精度だ。Grossmann式とAISI標準曲線をベースにしており、SCM440やS45CのようなJIS常用鋼で実測ジョミニーバンドの中央値とDI値で±15%程度のズレに収まる。ただし熱間加工履歴(圧延・鍛造比)や偏析、脱酸条件で実材は変動する。重要部品(航空・原子力・大型クランクシャフトなど)の最終判定はJIS G 0561に従った実機ジョミニー試験か鋼材メーカーのミルシート照合を行うこと。本ツールはあくまで「鋼種を絞り込むための一次スクリーニング」だ。
H値(冷却媒体の厳しさ)は何に使うの?
H値はGrossmannが導入した冷却厳しさ係数で、油≒0.35、水≒1.0、塩浴≒2.0の数字が業界標準だ。本来はDIから実用臨界径DHを計算するための補正係数として使う。本ツールではDI算出には使わず、警告判定(高炭素鋼+水焼入れの焼割れ警告)と「冷却条件を意識してもらうための表示」として残してある。実用焼入れ深さを精密に推定したい場合は、別のDH計算ツールやメーカー資料を併用してほしい。
ボロン添加鋼を計算したいけど、固定倍数2.0で十分?
実務上は十分だ。ボロンは0.0005〜0.003mass%の狭いレンジで効果を発揮し、それ以下では無効、それ以上では飽和+脆化の両方が起きるという特性を持つ。本ツールはこの不連続な挙動を「閾値超過で2.0」というスイッチ的な扱いで近似している。文献によっては化学成分依存の式(例: fB=1+α×B+β×C×B)を提案するものもあるが、係数のばらつきが大きく実用上は固定倍数で問題ない。Bを0.003%超で入れた場合は警告メッセージが出る。
入力した成分データはどこかに保存される?
このツールの計算はすべて自分のブラウザ内で完結する。入力した化学成分や鋼種選定の履歴がサーバーに送信されることはなく、外部に保存もされない。ページを閉じれば数値は消える。社内の試作鋼や開発中の合金成分を入れても情報漏洩の心配はない。ミルシートのスクリーンショットをそのままコピペで使ってもらってかまわない。
結果のクリップボードコピーはどんな形式?
DI値、最大HRC、焼入れ性ランク、Jominy距離別HRC(13点)、推奨焼戻し温度、警告メッセージをプレーンテキストで一括コピーできる。Excelに貼り付けると改行で行が自動分割され、社内レポートやメール添付の文面にそのまま使える形式にしている。鋼種選定の議事録に「DI=147、ランクA、推奨焼戻し500-600°C」のように残しておくと、後日の経緯確認が楽になる。
まとめ
化学成分からDI値・Jominy距離別HRC分布・焼入れ性ランクを一気に見られるツールは、鋼種選定の最初のスクリーニングを劇的に短くする。プリセットを切り替えるだけでSCM440とSNCM439の違いが見え、ミルシートの実測値を入れれば偏差も把握できる。
溶接を伴う部品なら炭素当量を /carbon-equivalent-calc で求め、HAZ硬度の予測を /weld-haz-hardness でクロスチェックすると、鋼種選定から施工計画までが一筆書きで繋がる。気になった点があればお問い合わせフォームから教えてもらえると助かる。